最近、革命をテーマにした詩の冊子を読みました。
今の時代だからこそ革命を、という志は評価しますが、
なぜだろう、響きませんでした。

そこで思い出したのが、田村隆一の「西武園所感」という詩。

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 西武園所感
  ――ある日 ぼくは多摩湖の遊園地に行った

 詩は十月の午後
 詩は一本の草 一つの石
 みみつちく淋しい日本の資本主義
 ぼくらに倒すべきグラン・ブルジョアがないものか
 そうだとも 僕らが戦うべきものは 独占である
 生産手段の独占 私有生産手段である
 独占には大も小もない すでに
 西武は独占されているのだ
 君がもし
 詩を書きたいなら ペンキ塗りの西武園をたたきつぶしてから書きたまえ
 詩で 家を建てようと思うな 子供に玩具を買ってやろうと思うな 血統書づきのライカ犬を飼おうと  思うな
 詩で 諸国の人心にやすらぎをあたえようと思うな 詩で人間造りができると思うな
 詩で 独占と戦おうと思うな
 詩が防衛の手段であると思うな
 詩が攻撃の武器であると思うな
 なぜなら
 詩は万人の私有
 詩は万人の血と汗のもの 個人の血のリズム
 万人が個人の労働で実現しようとしているもの
 詩は十月の午後
 詩は一本の草 一つの石
 詩は家
 詩は子供の玩具
 詩は 表現を変えるなら 人間の魂 名づけがたい物質 必敗の歴史なのだ
 いかなる条件
 いかなる時と場合といえども
 詩は手段とはならぬ
 君 間違えるな。

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詩は手段とはならぬ、というのが衝撃的なフレーズ。
だけど、不思議と納得のいくものがあります。

件の革命の詩の冊子。

いかんせん革命というワードになんとも重厚な歴史がありすぎてガチガチの意味性を秘めてしまっています。
そういうガチガチの固定概念にしばられているような印象。
革命とは、武器をとれ、わたしたちは戦わなくてはならない。
その武器として詩を掲げるのだあ。
そんな雰囲気。
「西武園所感」でも「詩が攻撃の武器であると思うな」とうたわれているけど、まさにその通りのように思います。

革命とは、強固な信念が必要な行為です。
それゆえに革命を志す人にはそれはそれは強い衝動が宿ることでしょう。
でも、詩はその強い衝動の発露としてだけ存在することができるのであって、その志を意識的に訴えるものにはなりえません。残念ではありますが。
詩は難しいものですね。

わたくしたちはいまや抵抗してもせずとも、無意識に権力の犬であります。
新しい島ができてもまず議論されるのは所有の問題。
それは今わたくしたちが生きている社会の常識ではあります。
その感覚に狂気を感じずにはいられません。
わたしたちは厳密な意味で何も持たずに生きることはできません。この社会の中で生きようとおもうのならば。
この社会に生きることを拒否しないかぎり、わたくしたちは無意識に権力の犬でありつづけます。

ですが、芸術という分野においては、容易に(理想自体を作り出すことは非常に困難ですが)社会という層からねじれた場をつくり、または覗くことができる。

詩は手段とはならない、けれど、ちょっと浮遊することができる。
浮遊しているときだけは、わたしたちは犬でなくなることができているのかもしれません。