感想&解釈『私はゴースト』ラストをどう見るか
ホラー映画『私はゴースト』(原題:I Am a Ghost)を鑑賞しました。 この作品はアメリカのカルフォルニア州出身のH・P・メンドーサ監督により製作され、2015年7月に発表されました。
主演はアンナ・イシダさん(公式ページ)、
東京生まれのサンフランシスコ育ちの役者さんです。
東京生まれのサンフランシスコ育ちの役者さんです。
[あらすじ]郊外の一軒家で亡霊・エミリーは何度も同じ生活を繰り返していた。ある日現れた霊媒師・シルヴィアの力を借り、エミリーは自分自身の死の真相に迫っていく…
とてもおもしろい映画でした。
賛否両論ありますが、
その評判の通り一筋縄ではいかない良質な作品です。
この作品は一回見ただけでは理解しにくいところがあり、
とりわけラストは解釈が見た人によって異なります。
(私も最初みたときは不気味だということしかわかりませんでした…)
本記事では『私はゴースト』について読み解いていきたいと思います。
※ネタバレしかないので、苦手な方は注意してください!
※ネタバレしかないので、苦手な方は注意してください!
亡霊エミリーと詩人エミリー
映画は冒頭にアメリカの詩人エミリー・ディキンソンの詩を掲げたのちに始まります。
One need not be a Chapter to be Haunted.
One need not be a House.
The Brain has Corridors surpassing
Material Place.
-Emily Dickinson
〔日本語 字幕〕
霊は 墓や家だけでなく
人の心にもとり憑く
-エミリー・ディキンソン
エミリー・ディキンソンは生前は無名だったものの、
家族によって死後発見された1700篇以上の詩が注目を浴び、
今ではアメリカを代表する詩人として地位を確立しています。
冒頭で掲げられるくらいですから、
何かしらの意図があることは明らかです。
詩を読み解く
一体どんな意味の詩なのでしょうか。
全文を読み解いてみましょう。
全文を読み解いてみましょう。
〔原詩〕
One need not be a Chamber — to be Haunted —
One need not be a House —
The Brain has Corridors — surpassing
Material Place — Far safer, of a Midnight Meeting
External Ghost
Than its interior Confronting —
That Cooler Host. Far safer, through an Abbey gallop,
The Stones a'chase —
Than Unarmed, one's a'self encounter —
In lonesome Place — Ourself behind ourself, concealed —
Should startle most —
Assassin hid in our Apartment
Be Horror's least. The Body — borrows a Revolver —
He bolts the Door —
O'erlooking a superior spectre —
Or More —
原文はpoemhunter.comより引用
部屋は必要ない 取り憑かれるためには
必要はない 家も
なぜなら 頭の中には廊下があって
それは実在の場所を凌駕しているから
よっぽど安全なのは 真夜中に出会う 外界の幽霊
内なる世界で向かい合う
一層冷たいあの主に比べたら
よっぽど安全なのは 修道院で石つぶてに追われ 馬のようにかけること
なんの武器も持たずに 寂しい場所で
自分自身と向き合うことに比べたら
自分自身の背後にある 隠された自分
それこそが最も驚くべきもの
私たちのアパートメントに隠れている暗殺者は
ちっとも怖くない
身体は 一丁の拳銃を持ち
ドアに鍵をかけている
より恐ろしい幽霊を見逃している
拙い訳で申し訳ないですが、
意味はなんとなくわかってもらえるでしょうか。
意味はなんとなくわかってもらえるでしょうか。
つまり、
外界で出会う幽霊や脅威よりも
自分自身の中にもっと恐ろしいものはあるということを言っているんですね。
That Cooler Host、a superior spectre・・・
どちらも人の深淵にある恐れるべき何かに言葉を当てはめたものです。
どちらも人の深淵にある恐れるべき何かに言葉を当てはめたものです。
詩で言われている恐れるべき何かは、
なんだかエミリーの中で生まれたもう一つの人格、
もう片方の魂であるdemonにとても似ています。
『私はゴースト』との関わり
demonはラスト20分くらいのところでやっと登場するのですが、
これがなかなか不気味。
青白い肌に真っ黒な目の男は屋根裏部屋からのそのそと降りてきて、
ナイフを持ちながらエミリーを追いかけます。
バスルームに逃げ込んだエミリーにdemonは扉越しに言います。
オマエは知らずとも オレは知っていた
ずっとオマエの中にいて 教えてやろうとした
臆病者のオマエが決して知ろうとしないーー
知ったところでどうにもならない答えを
オマエの名で呼ばれるのが嫌になったオレはーー
脱走を図ったが オマエに邪魔された
オレは怪物だが 犠牲者でもあるんダ…
このあとエミリーはdemonによって首を絞められ、
これまでの彼女の生活がフラッシュバックします。
突然頬をぶったり、手にナイフをさしたりといった自傷行為は
demonがエミリーという個人から脱走を図った結果だという示唆のようでした。
demonがエミリーという個人から脱走を図った結果だという示唆のようでした。
エミリーはdemonのことを途中まで忘れ、
シルヴィアに言われるまで向き合うことを嫌がりました。
それはdemonがエミリーにとっての
「Ourself behind ourself, concealed」(自分自身の背後に隠された自分)であり、
それと向き合うことこそが最も怖いことで
不安をかき立てるものだったからなのではないでしょうか。
白いドレス
詩人・エミリーは白いドレスを着て、部屋から一歩も出ず、誰も入れず、
詩作に打ち込んだと言われています。
亡霊・エミリーも白いドレスを常に着用しており、
その姿は詩人・エミリーを彷彿とさせます。
詩の本文とは離れた話にはなってしまいますが
単純に名前も同じですし、エミリー・ディキンソンは亡霊・エミリーのモデルだと言えるのではないかと思います。
ただ、亡霊・エミリーは買い物にも出ていますし、
このあたりが史実とどう違うのかが照らし合わせができていないのでなんとも言えません。
個人的には亡霊・エミリー=詩人・エミリーではなくて、
あくまでイメージは引き継いでいるけど全く違うキャラクターとして描かれていると考えています。
写真であるとか、壁に飾られている絵画であるとか、
ヒントはたくさんありそうなのですがこちらは追いかけきれませんでした…
途中、回想にでてくる馬車のシーンは同じくエミリー・ディキンソンの詩が元ネタなのではないかと思っています。
他にもヒントはたくさん散りばめられているような気がするのですが…。
ただ、おもしろいのは映画公式ページを見ると、
霊媒師のシルヴィアの名前もディキンソンと同じく米詩人であるシルヴィア・プラスからとってるんじゃないかと指摘があること。
メンドーサ監督は詩に対する造詣が深いようですね。
ゴーストとは何か
I am a ghost. I am a ghost. ghost, ghost, ghost...
(わたしは幽霊 わたしは幽霊 幽霊 幽霊 幽霊)
ラストシーンでエミリーはつぶやきながら闇に飲まれていきます。
もともとは霊媒師・シルヴィアが亡霊であるエミリーが死んでいることを自覚させるために繰り返すよう言われたものです。
もともとは霊媒師・シルヴィアが亡霊であるエミリーが死んでいることを自覚させるために繰り返すよう言われたものです。
作品のタイトルにもなっているこのセリフ。
そもそもゴーストって当たり前のように出てきますが何のことなんでしょう。
ゴーストの意味
ghostを辞書でひくと以下のよう意味がでてきます。
1 幽霊、亡霊、死者の霊、おばけ、痩せこけた青白い人
2 影、幻
3 《古》魂
引用:ジーニアス英和辞典 第4版(大修館書店・2006年12月)
よく使われる意味としてはやはり幽霊や亡霊といったオカルティックな意味合いのもの。
本作でもだいたいはこの意味で使われているでしょう。
ゴーストライターとかだと2の意味が転用されて使われるんですかね。 注目したいのは3の魂。
本作でもだいたいはこの意味で使われているでしょう。
ゴーストライターとかだと2の意味が転用されて使われるんですかね。 注目したいのは3の魂。
幽霊といった意味よりは大きな枠組みを示す言葉です。
ゴーストの語源をたどる
ghostの語源についてはこちらのページで丹野真さんが非常にわかりやすくまとめてくださっています。
ゴーストの語源とは何か?ゲルマン祖語と古ノルド語における大本の語源と、北欧神話における死と憤怒の神オーディン | TANTANの雑学と哲学の小部屋
という単語は、 現代の英語においては、 「幽霊」や「亡霊」あるいは、 「影」や「幻」 といった意味を表す言葉として捉えられることになりますが、 その 大本の語源を古代へとさかのぼっていくと、それは、単に「幽霊」や「亡霊」といった 死者の魂 のことを意味する用途以外でも用いられていた言葉であったと考えられることになります。 今回は、こうした 現代英語における "ghost" (ゴースト)という単語の語源を、 古英語から、その大本の語源にあたる ゲルマン祖語、さらには、それと深い関係にある 古ノルド語 へとさかのぼっていくことによって、 ゴーストの語源となる言葉が、 古代ヨーロッパの言語において、 具体的にどのような意味を表す言葉 であったのか?ということについて詳しく考えていきたいと思います。
ghostの語源にせまっていくとどうやらもともとは幽霊や亡霊といった死者の霊魂といった意味とは異なる用途でも使用されていたようです。
まとめるとghostの大本の語源をたどるとゲルマン祖語のgaistazにたどり着き、
死者の魂という意味を持つと同時に、怒りであったり憤怒といった生者の感情や心を意味する言葉としても使われていたようです。
ghostと死者は今や当たり前のように結び付けられますが、元をたどるとより人間の根源的なエネルギーの存在に行き着くのですね。
闇に飲まれていくエミリー
エミリーは最後成仏できると信じながら、闇に飲まれていきます。
私は幽霊と繰り返す姿はもらったおもちゃを一生懸命握りしめる子どものよう。
それしか頼りがないから、おまじないのように唱え続けるのでしょう。
彼女にとってのghostはこのときもちろん亡霊の意味だったでしょう。
しかしそんな彼女が闇に飲まれていくとき、
ghostは死者という殻から解き放たれて
根源的な魂の姿に還っていくように見えました。
エミリーは成仏できたのか
最も意見がわかれるところかと思います。
ここで考えたいのがそもそも成仏するって何のことなのか。
シルヴィアは「光に包まれて天に昇る」と表現します。
ただ、
シルヴィアは幽霊の姿は見えずに声が聞こえるだけと自分自身で言っていますし、亡霊が光に包まれる姿を視覚的に感知したことはないはずです。
(亡霊自身が語っているのをきいた可能性もありますが)
あくまでシルヴィアは生者の立場からエミリーに干渉しているのであって、経験として彼女自身が天に召されていることも考えにくいです。
(シルヴィアに前世の記憶があれば別ですが)
ラストシーンで霊媒師はエミリーには見えていない「光」に導かれよと繰り返します。
これまでエミリーに説いてきた成仏とは全く違う光景を私達は目の当たりにして困惑します。
ここからわかるのは魂の行く先は生者にとって未知の領域だということです。
いくらシルヴィアが理解者としてエミリーに寄り添ったとしても、
エミリーは死者であり、彼女自身しか経験することのできない事象に巻き込まれているのです。
亡霊・エミリーが闇に飲まれた後にどうなるかはわかりません。
ただ、生者の世界残っていた記憶の残滓は消滅して静かな誰もいない室内がエンドロールで映し出されます。
生者の世界からは解き放たれ、私達は知らない次のステージへいった。
もしくは世界の根源に還ったのかもしれません。
終わりに
調べれば調べるほどに新事実が発覚していき、
見始めた当初よりもずっとずっとこの映画が好きになりました。
知れば知るほど楽しめる作品です。
今回はエミリー・ディキンソンの詩とともに映画を考察しましたが、
着目するポイントが違うと全く違う解釈も成り立ちそうです。
そういった何重にも意味が重なっているところがこの映画を複雑にし、
おもしろくしているところだろうなと思います。
コメント
0 件のコメント :
コメントを投稿
アカウントがない方は「名前/URL」を選択してください。※URL記入は必須ではありません。