大学院の授業で明治初期の翻訳小説をやっています。
 今までは避けて通っていたところでどうなるものやら……と思っていましたが、これがなかなかおもしろい。まったく新しい世界なので興味津々になっています。
やっているのは原題「The Haunted and the Haunter」(エドワード・ブルワー=リットン・作)を井上勤が訳した「龍動鬼談」です。これで“ろんどんきだん”と読みます。(よめねーよ^^!っていう。)

 これを読み進めていくと、訳と原作ではいろいろと違う。


 まず、井上勤の訳は漢文訓読調で、かつ漢字と「カタカナ」で表記されている。時代を感じます。
言文一致がまだ達成されない、それに至るまでの過程の時期であることの証明でもあると思うのですが思うですが、鍵括弧は使われずにセリフも表現されています。
 ちなみに、原作では登場人物の話した内容は直接話法で描かれているため、セリフにはダブルコーテーションによってくくられています。

 そして、井上訳は加筆が非常に多い。原作ではそこまで深く追求していない登場人物のキャラクターを事細かに描いている。「a philosopher」という後世では「哲学者」の一言で終わってしまう単語も、かなり大仰に聞こえる訳を当てています。
 しかし、それはおそらく明治初期の日本人にとって「哲学者」という存在があまり一般的ではなかったからなのだろうと思っています。だからこそ、「哲学者」という、なんといいましょうか大枠を示す《属性》のようなものを当てるのではなく、意味も通るように苦心して訳を当てたのでしょう。
 その苦心が「a philosopher」にあたる箇所にはありありと見えて少し感動しました。

 原作との比較ももちろんおもしろいのですが、後年の翻訳との比較もなかなかおもしろい。
役者の生きた時代と、その役者の感性によってかなり趣が違ってきます。

 とある訳にはクエスチョンマークがあらわれたり、とある訳は句読点のみで構成されたり。
 とある訳は非常に機械的に原作にならって訳していたり、他のものはかなりこなれて読み物として恰好のよい、調子のよいものになっていたり。
 とある訳にはアルファベットが表れ、とある訳は鍵括弧で音だけをくくってみたり、とある訳はそこだけをカタカナにして音で表現してみたり。

 それぞれの訳が個性をもっていて、その工夫が見えます。
 同じ話を語ろうとしているのに、違うものができる。なんだかこれって当たり前だけど不思議なことです。

 わたしは今まで翻訳を読むということに意味を感じていませんでした。そういうのは結局原典にあたらないと意味がないんだと……。
 しかし、そうでもなかったんだなあ。幼い頃のわたしに教えてあげたい。素直に後悔です。
 原典にあたることはそりゃあもちろん大事ですが、翻訳は翻訳でひとつの創作物。
 訳を読むからこそ見えるものもあるのだと気づきました。

 英語のニュアンスでしか表現し得ないものを日本語で表現しようとする。その営みこそが美しい日本語の表現や想像力を生み出したりするというケースはそりゃあもうたくさんありますものね。
 言語と言語のぶつかり合いとはなんともドラマチックであります。

 しかし、課題が自身の実力も足りていないせいでなかなか進まない。頑張ろう!
 

 そういえば、他の授業で東海道四谷怪談を見たんです。よく考えたら幽霊ばっかだなあ(笑)