今やってる授業実践について。
この記事では、その実践にいたる過程まで。
実践本編については元気があったら書きます……。

国語教育についての授業で、春から学力低下問題についてやってきました。
戦後学力低下問題と現代の学力低下問題の類似性が主軸のテーマ。

戦後、日本の教育は大きな転換を迫られました。
つまり、「軍国主義」からの脱却。
「国家のための教育」から「個人の権利としての教育」への移行が急務とされました。
このような教育の転換の中で用いられることとなったのが経験主義方式の教育。

経験主義、とは、簡単に言えば、学力は実際に体験することによって養われていく、という考え方。
この方式を使った授業の形態としてあげられるのが「単元学習」。
単元学習とは一つのテーマを設定して、それを掘り下げていく学習方法。

例えばテーマが「魚屋さんの仕事」だったとする。
単元学習ではこの「魚屋さんの仕事」を掘り下げていくことで学習をしていく。

「魚屋さんの仕事ってどんなものか?」という最初の疑問があったとします。
この疑問について考えられることとしては、

  1、魚を売る
  2、魚を仕入れる
  3、魚をさばいて売ることのできる状態にする

というようなことでしょうか。
では1、魚を売るということはどんなことでしょうか。

魚を売るということは「お金のやりとりをする」ことという一側面が見つかる。
と、なるとここでお金の計算を勉強する必要性が出てきます。
このお金の計算を学ぶ上で、ただお金の計算をドリル形式でやる方法がひとつ。
そして、実際にお魚屋さんになりきってお金の計算をやるというロールプレイ形式の方法がひとつ。
このロールプレイは経験主義方式の教育実践の中で特にわかりやすい例と言えるでしょう。
実際にその役割を演じることによって「経験」をすることで勉強をする。
これが経験主義方式の教育です。

2、魚を仕入れるであってもこのお金の計算についての問題は出てきます。
しかし、それだけではありません。
ここで学ぶことができるのは魚がどのように流通していくのか、という極めて社会科的な内容。
でも、このような一見国語学習とは横道にそれる内容であったとしても、その中で言語活動を行っていくということが単元学習の特徴でもあります。

3、魚をさばいて売ることのできる状態にする
これを学ぶのであれば、実際にさばいてみるということが必要になってくるでしょう。これは家庭科的な内容になります。
しかし、それだけではなく実際にさばくことで魚の構造を学ぶことができます。
そして、魚に刃を入れるという経験を通じて命について考えることにもなるでしょう。これは道徳的な要素になるでしょうか。

このように一つのテーマを学ぶ中で多くの要素を取り入れながら、その中で言語活動を行っていくことで学びを深めていくのが単元学習法となります。

これが戦後取り入れられることになります。
なぜか。それは、戦後になって「子どもの興味を出発点とする教育」が提唱され始めたから。
戦時までは画一的注入型の一斉授業を採用してきました。いわゆる詰込み型の教育です。
しかし、これは非常に子どもに酷なものであった。だからこそ、子どもの興味を出発点とすることで学びを深めるという一つの理想を掲げたのでした。

しかし、当時は物資も不足しており、教師も新しい教育法に馴れていない。
また、単元学習の一つの特徴として「騒がしい」ということがあります。
今までの注入型教育はとても静かなものだった。このような一つの思い込みから保護者から批判がわき上がりました。「遊んでいるんじゃないか????」

そして、こんな中導入されたのが一般に「全国学力テスト」と呼ばれる全国学力・学習状況調査。
このテストで当時の学生たちは学力低下という現実を突き付けられます。
この明確な数値の提示によって、大人たちは騒ぎだします。「単元学習は間違いだったんじゃないか??????」


このような状況、現代における「ゆとり教育」の動向と非常によく似ています。
ゆとり教育は、高度経済成長期の華やかな側面の裏側で、子どもたちに「荒れ」が目立つようになったという当時の社会情勢を鑑みて提唱された教育でした。
本来は、親と子どもの時間をもっと取れるようにと提唱された考え方だったのですね。
実際、塾に通う生徒が増えたことで本来の目的は果たされてはいないようです。

ゆとり教育の場合、PISA型テストという国際的な学力テスト。
この順位が下がったことによって学力低下が叫ばれるようになりました。
(実際に学力が下がったかどうかについては諸説有)
ゆとり教育の中で取り入れられた特徴的な施策として皆さんの頭の中に浮かぶのは「総合」の時間ではないでしょうか。
これ、先述したお魚屋さんの実践例を見ていただくとよく分かるかと思います。
そう、「総合」の時間とは、単元学習の学習理念に基づいた授業形態なんです。
しかし実態はというと、係活動の時間になったり、学活の時間で終わらなかった作業を行う時間としてあてがわれた例が多かったようです。
それも、単元学習的といえば単元学習的なのですが、意図とは少しずれていた。

なぜ、このように単元学習法は大々的に導入されても中々根付いていかないのか。
多く理由は考えられます。
 →単元学習をするのに教員がなれていない。(これは大きいでしょう)
 →大々的な単元学習をするのに予算がない。(これもありそう、実際のところは調べてないのでわかりませんが)
 →単元学習は準備が大変すぎる(実際やると鬼のように大変です。教員はいろんなことで忙しいから、実際は難しいように思う)
 
このような教師側の問題はいくらでもあげることができる。
しかし、それだけなのか。

わたしは学習を受ける側の意識が大きく関係しているのではないかと思っています。
ゆとり教育の理念は、表層の技能としての学力を問うものではなく、そこから応用される人間の資質を問いています。これははっきり言って本当に素晴らしいものであると思います。
しかし、この素晴らしい理念にどれだけの人間がついていけるのか。

現代の教育現場において、保護者からの要求は多量化し、多様化しています。
多量化はまさしくそうとしか言えませんが、実際、多様化しているのか。
今、社会自体が経済を中心として回っており、その経済社会の中で子どもが健やかに育って立派になってほしい。このことを願っているのが保護者の大多数でしょう。主軸はここなのです。
この要求の主軸と、ゆとり教育の理念は合致するか?

絶対しません(ω)

つまり、ゆとり教育が求める人間像と社会が求める人間像がずれているのです。
ここが非常に問題。
だからこそ、教育には無理が生じてくる。

しかし、このような経済社会での成長を願わない保護者も少なからずいます。
この二つの派閥の隔たりは非常に大きい。
この両者の要求に教員が一人で応えていくことは難しいでしょう。

そして、ここでもう一つ問題があります。
保護者の要求は本当に子どもによい影響を与えるのか。という問題です。
保護者と子どもは異なる存在です。だからこそ、この片方の要求に寄っていくわけにはいきません。
しかし、多くの子どもはその要求を出せるほど成熟していません。

では、その子ども自身が要求を出す力を育てる手助けができないか。というのが今やっている教育実践の出発点です。

ここまでくるのが長かったなあ。
しかし、最近学校を社会に出る予備校という一面を極端に強調する風潮が流行っていますよね。
そのように作り変えていくという道はおそらく高度経済成長期時代へ向かった教育と同じような道を辿っていくような気がします。
そういう道に行ってもいいですが、わりとうまくやらないと荒れるとかそういうレベルじゃない、何かに達してしまうような気もする。
実学は大事ですが、それと同時に実学とは違う世界に対する想像力を同じくらい養っていかないとバランスが悪いのではないかなあ。

というのが今の考え。

記事先頭の絵は「机旅立つ」というタイトルです。