数日間、もう世界は終わるぜみたいな気分(わたしはこの気分をわけあってロックマン状態と読んでいる)でちょっとつらかったです。(今日抜けました。ご心配なく)
何も手がつかないし、気分は落ち込んでいくばかりだし。
いやだねえ。

最近は、三島由紀夫の『仮面の告白』を読んでいます。

これがまたいけなかった。

わたしの思春期トラウマ作として、
吉野弘「I was born」
浜口国雄「便所掃除」
があるわけですが、これらと並ぶのが他でもない『仮面の告白』であります。

思春期の私にとってはとんでもない衝撃があったことを覚えています。
描写が割とえげつないっていうのもありますが、なんというか自身の中に眠っている自己嫌悪という自己嫌悪を呼び覚ましてくる作品なんですよね、これ。うまくいえないけど。

なんの縁かこちらを授業で取り上げることになりまして、
それはそれはもう乗り気ではなく、
その上ロックマンだったので、
もう立ち直れないんじゃないかという終わりの見えないトンネルにいるような感覚でした。

そんな中でも『仮面の告白』がいかに素晴らしい作品であるかということは理解をすることができました。
そして、素晴らしい作品であるがゆえに再度呪いをかけられたような気分に陥っています。
読めば読むほどのれんに腕おしでなんにもないようで、虚しくなってくるんですよね。切ないとかじゃなくってね、なんか悲しくなるんですよねえこの小説は。

授業では、他の人は、この「私」はすごく変だという感想を述べていたんですが、なんだかわたしは言い知れぬ子どもっぽさのようなものを感じまして。
でもそれもまた虚構であるような気がしてかなしくてかなしくて仕方がないわけです。
わたしとしては、この子どもっぽさというのは虚構によって書かれなかったところであると信じたいんですがね、それもどうなんでしょうね。
佐藤秀明さんが『三島由紀夫の文学』で言っているような説っていうのはそういう気分のなかではものすごく希望の光みたいなもので救われました。
評論不要論っていうのは最近盛り上がっていますが、こういう風に自分の中で作品の価値付けを行うときには評論は必要不可欠だと思います。その個人による価値付けが一定数そろってくると普遍化がなされるわけですが、この普遍化に至るにはとにかく論じるしかないですよね。
とにかく論じるしかない。

同時に源氏物語における「私」についても授業でやってるんですが、結論としては平安期に近代的な「私」像を持ち込むのは非常に危ないということでした。
わたし自身、『源氏物語』を読む中では源氏ロリコンマジ気持ち悪いから入っているような初心者なので、こういう時代に合わせた読みをするということには不慣れでありまして、それゆえにおもしろいなとも思うのです。
『源氏物語』の「私」は、むしろ作者と密接であると読んだ方がいいのであって、ロラン・バルトが提唱した「作者の死」というような考えを適応することはできないんじゃないかということですよね。
論文を読んでいても、その時代時代の流行というのが見えてくるものがありますが、この「私」をめぐる源氏の読みというのはそれを顕著に感じさせる例であると思いました。

こういう風に「私」ということを考えているとより一層ロックマンが進行していくんですよね。
よくないことです。こんな風に「私」ということについて考えまくっているから近代は次々に人が死ぬんですよね。よくない、本当によくない。

こういうことをぐるぐると考えているときに、『仮面の告白』を読んで、これは非常にわたしが研究する片山恭一の「世界の中心で、愛をさけぶ」と構造が似ていると気付いたわけです。
それで、感覚的にこの二つを比較してみると、『仮面の告白』は人を死なせる小説であって、セカチューは絶対的に人を生きさせようとする小説であることに気づきます。

まあ、少なくともわたしは『仮面の告白』を読むと悲しさに押しつぶされそうになるんですよね。

大塚英志は近代は終わっていないということを説いています。わたしも最近は終わってないんじゃないかと思っちゃっているんですがね、それでも、やっぱり何かが違うとは思う。
(そりゃ時代背景が違うわけですから違うの当たり前なんだけどねーハハハ。)
文学研究は作者が死ななければできないという考えにはそれはその通りと頷かざるをえないですが、それでもやっぱり生きている間にできることはあるとは思うんですよね。

ぐるぐると、うだうだと考えることばかりして、言葉にできなくなるときが多いんですがそれでもやっぱりここに行き着くんで、わたしはこれをやるしかないんだろうね。

ぐだぐだぐだぐだぐだしててほんとーーに胸糞悪いなほんとうにもう。

っというようなことになるのがロックマン状態(ロックマン3のBGMをきいていると高確率でこういうぐだぐだな状態になることから)なんですが、抜けだしたと思ったのに結局抜け出せてなかったのかしらん。

でもね、やっぱり考えるのは楽しい。
そして、こういう状態のときは絵を描くのも楽しいのです。