ちょっと前にTOKYO-MXかなにかだっと思うんですが映画番組をやっていて、そこでダウンタウン松本人志さん監督作品「R100」が紹介されていました。
テレビに映ったのは片桐はいりさんが謎のモンスター的容貌となって人を飲み込んでいるという衝撃映像。それでなにこれうっわめっちゃおもしろそおおおおと心を掴まれてしまいました。
まず手始めに大日本人からと思い、鑑賞することに。

映画『大日本人』とは?


「大日本人」は、大佐藤さんという方の密着取材の模様を描いた作品です。
詳しく言ってしまうとネタバレになってしまうので、あらすじはこれくらいで。

賛否両論ある作品ではありますが、わたしとしてはかなりおもしろく見ました。すごくいい作品だと思います。
とはいえ、大日本人のタイトルが出る何分かまではかなりつらかったです……。
でも、だんだん慣れてきて、物語中盤になってくるとあの辛かった何分かも必要不可欠なものであるように思えてきました。

こういう映画ってなかなか作れないものだと思います。本当に面白かった。もう一回みたいです。
某映画レビューサイトでは星3つにも満たないですが、こんなにも的確で期待できる星2つちょっともめずらしい(笑)
星3つに満たないというその事実さえちょっと笑いに変わっちゃうんですよねえ。
この作品の中にただようなんだか冷たくて寒い、さびしーい空気が現実までも侵食するという…。
なんとも恐ろしい作品です。

ただ、かなり人を選ぶ作品です。
シュールな笑いが好みでない人は多分たえられないかもしれません。

以前紹介した大喜利青春マンガ「キッド・アイ・ラック!」を一読頂いてからこの大日本人を観賞してみるとかなり頭を柔らかくしてみることができるのでおすすめです。

漫画「キッド・アイ・ラック!」にはお笑いの方法論や、お笑いをやってる人たちがどのようにプローチしているのかが丁寧に描かれています。
どうしてそのようなことを言ったのか、なぜそんなシーンが出てきたのか…かなり難解なつくりになっているのである程度知識を得たうえで見る方が楽しめるかも。

それでは前置きはこのあたりで。
内容についての感想にうつりましょう。
※以下お話の核心に触れる記述があります。お話の筋を知りたくない方は閲覧をご遠慮ください。



「大日本人」のおもしろいところ


大日本人というネーミングどおり、この『大日本人』は、“ヒトが「大きくなる」”というお話です。
大きくなるのは、「大佐藤大(だいさとうまさる)」さん。
おもしろかったなーという要素を以下羅列。


「大佐藤大」というネーミング


まずわたしはこの大佐藤大というネーミングにやられました。
映画では確か、大佐藤という表札が出て、インタビュアーが「下の名前は?」と尋ねるのです。
「大佐藤」という苗字をきいてまさかwwwww大とかいてwwwwwまさるとよませるのかwwwwwwwwそんなわけwwwwないよなwwwwwとケラケラしていたら「まさるです、大ってかいて」みたいなセリフを大佐藤さん(松本人志)が哀愁たっぷりに言うんです。
これは超盛り上がりました。「大佐藤大wwwwwwwwwwww」ケラケラケラwwwwwww いやあ、このときは大興奮でした。
こういう安直すぎて、そんなまさか!と思われるようなネタを物語の主軸たる主人公にもってくる冒険心が素晴らしいですね。
そして、そんな安直で、くだらない冗談を大真面目な顔で、しかも哀愁たっぷりの表情と背景のなかで言う。
劇場だったら、あの雰囲気は笑っていいのかどうかかなり戸惑ったんだろうなあ(笑)
 

「インタビュアー」という存在


この映画の中でまず注目したいのは、番組をリードする立場である「インタビュアー」です。

まず、インタビュアーの「大佐藤大」さんの名前を聞き出す役目について注目したい。
インタビュアーが名前をきくという行為は、さきほど示した通り非常にベタな予測可能な解答を導き出す行為です。これは、<映画視聴者>の「まさか?」という気持ちを代弁したものです。つまり、インタビュアーの目線はの<映画視聴者>の目線と共通する部分を見出すことができるのです。

そしてまた、インタビュアーが名前を聞き出す会話には、コントのような「ツッコミ役がボケ役からボケを引出す」という方法論が見いだすことができます。
インタビュアーが「大佐藤大」というふざけたネーミングという「ボケ」を、大佐藤さんから引き出しているのです。この方法論に当てはめると、インタビュアーはツッコミ役として理解することができるでしょう。
  しかし、実際のコントと違うのは、インタビュアーはやんわりとツッコミをいれながらも、大佐藤さんを放置して泳がす。肩を叩く、大声を出すというような明確なツッコミの手段をとることがないということです。(そうなんですか、というような同意の言葉を使うことが多かったかと思います。)確かにおかしいはずなのにツッコミが入りません。

というか、このインタビュアー自体とぼけているように見えます。
明確なボケツッコミがあるコントの場合は、ボケが常識からはずれ、ツッコミは常識の範疇にいることが多いです。(この常識の範疇というのが、後述する視聴者の目線につながっているように思います)
インタビュアーが「常識」の範疇から、大佐藤さんに対してコメントをしているかと考えれば、それは違う。彼はあくまで番組をリードする番組サイドの理念を根にして発言を行っているように見えます。大佐藤さんの発言のおかしさについては流し、視聴率が低いことを持ち出して怒ることからそれはよみとれるでしょう。

ここで考えなくてはならないのは、「大日本人」で描かれている世界の「常識」とわたしたちの世界の「常識」の差異です。
『大日本人』の作中において、大佐藤さんはヒーローの家系に生まれたがために、ヒーローとなっています。戦時中のいわば生物兵器という役割というものが提示され、同時に時代の移り変わりも説明される。時代が移り変わることによってヒーロー不要論が社会に蔓延している――というのが作中の社会背景としてあるわけです。まず、ここから現実とは離れている。お話の前提となる部分に、現実との差異が明確にあるはずなのに「ドキュメンタリー」という体裁をとることによってそれが現実であるように見えてしまうという構造があると思います。

『大日本人』がドキュメンタリー番組形式をとっているということは、冒頭部で非常にわかりにくく作られています。(この点については詳細を後述します)ゆえに、大日本人のタイトルが出るまではその前提を捉えることが容易でないものとなっています。

いってしまえば、この映画は「舞台」自体がおかしいのであって、物語をリードする語り手であるところのインタビュアーはその舞台の上にいる人であって、インタビュアーに感じ取れるおかしみの多くはその「舞台」にひっぱられているものと見れます。しかし、それは作中では隠される、とまでは言わなくとも、小出しにされています。
そのために、<映画視聴者>はインタビュアーに違和感を感じずにはいられません。名前を聞き出す会話では<映画視聴者>と同質の目線を持ったにも関わらず、どうやらなにかがおかしい。この違和感は、彼を作中においての<ボケ>としてのとぼけの感覚として映るのではないでしょうか。

インタビュアーの二つの要素を確認しました。インタビュアーという存在の中には<映画視聴者>の目線と「ボケ」を引出す<ツッコミ>の役割があり、「舞台」自体の差異によっておこる違和感が彼を<ボケ>役としても成立させているのです。
この様々な要素を盛り込んだインタビュアーこそ、『大日本人』の混沌とした雰囲気を醸し出す一つの要素であるように思えました。


大佐藤さんへの密着取材という形式



この密着取材という一件ドキュメンタリー番組形式をとっているかのような作品構造ですが、これが実はちょっと一筋縄ではいかないように思います。
ドキュメンタリーとするには作りが甘い。かといって取材ビデオとするには画面が綺麗すぎる。インタビュアーの主観から描いたというには松本さんの視線が別方向を向きすぎている。
カメラマンの目線、かもしれないんですが、それにしては手ブレと思われる演出が為されていたりして、人間の目線とは違うものの力を感じさせる仕様にもなっています。

このようにちょっと考えただけでも無数の視点の可能性が用意されています。そして、それがどれもそれだけでは説明がつかないという複雑な構造になっています。
ドキュメンタリー番組形式という枠組みだけでは読み解ききれない作り方が為されていると考えるのが妥当でしょう。

この多くの「視点」で視聴者は揺さぶられます。
私自身、ドキュメンタリー形式にするんならなんでホームビデオ系にしなかったんだろう、ドキュメンタリー番組仕立てにしなかったんだろうという違和感を抱えながらの視聴でした。

大日本人には、ホームビデオの映像とワイドショー的な映像の二種類が実際に出てきます。
ホームビデオは、別れた妻(大佐藤さんは分かれていないと言い張っている)のインタビューの映像(画像も荒く、ビデオ風)
ワイドショー的なのは、大佐藤さんについてのインタビュー映像。
この二つの映像を使うにあたって、全編を通してホームビデオ風、ドキュメンタリー番組仕立てにするのには無理があったのかな。
そして、忘れてはならないのが問題のラストシーンです。
ここからは実写で御覧くださいという言葉が掲げられた後、CG映像が配され、チープなきぐるみがジオラマに立っている映像に切り替わります。

ここからは実写でってことは、ここまでもこういうチープな映像で繰り広げられていたものがCGという技術によって、もっともらしく書かれていたのか?というような疑問を生じさせます。

このテロップを境に、この映画には大きく分けて二つの世界が提示されています。
一つは作り物でないもののように作られたリアルさ追求した本物っぽい「大日本人」の世界であり、もう一方は明らかに作り物と分かる偽物っぽいチープな「大日本人」がいる世界です。
今までは、はっきりとしなかった視点の変化が、ここでは非常にわかりやすい形で行われるのです。

この視点変化の差異には、作中に向けられた「視点」の疑問が現実へと拡張されていくさまが読み取れるように思えました。テロップ以前では、あくまで作中における視点の変化に疑問が障子されていたのに対して、テロップ以後では自分自身が見ていたものはなんだったのか?という自省につながっていっているのです。<映画視聴者>の視線自体に疑問を生じさせる方法として取られたのがあの「実写」という手法だったのではないかと思います。

そして、あの「実写」は非常にチープであり、滑稽なものとして映ります。この「視点」の変化は、多くのマジメな文学作品でも扱われるものであると思います。しかし、松本さんは、それを真剣な方法で向かうのではなく滑稽という「笑い」の方法論を持って表現しようとしたのではないでしょうか。

番外編・ヒーローとしての「大日本人」

その他、ヒーローという点についても、語ってみたいなとは思っていたのですがなかなか難しい問題ですので今回はやめておきます。
ただ、一つ言えることは『大日本人』が出た、2007年とはヒーローが盛り上がった時代であったということ。
以下は、「ヒーロー」に関わる作品の年表です。

2000/01/30 仮面ライダークウガ
2001/01/08  ドラマ「HERO」放映
2005     バットマン・ビギンズ
2006     仮面ライダーカブト
2007/01/28 仮面ライダー電王
2007/06/02 大日本人
2008     バットマン ダークナイト
2011     TIGER&BUNNY

ゼロ年代とは2000年の「仮面ライダークウガ」の放映を契機に、仮面ライダーの人気が高まった時代でありました。その中で、映画「バットマン・ビギンズ」が公開されます。この動きがなかなかおもしろいです。バッドマンは、ダークヒーローと表現されます。バッドマンは犯罪を憎み、犯罪者に立ち向かいます。しかし、彼がいることによって犯罪がまきおこるというような文脈もよみとれます。決して、望まれるヒーローとしてはありません。
しかし、その心理描写の緻密さからかバッドマンはかっこよいものとして全世界で大人気です。

『大日本人』はこの『バッドマン・ビギンズ』と同年に公開されますが、その「ヒーロー」像の差異が顕著にあります。望まれないヒーローとしての共通項は見出だせるかもしれません、しかし『バッドマン・ビギンズ』はヒーローの始まり・誕生であり、『大日本人』はヒーローの終末期を描いた作品です。ヒーロー不要論というものをどちらにも見いだせますが、そこには全く違う背景と時間を読み取ることができるのです。

そして、現実には『大日本人』は賛否両論となり、一般的なヒーロー市場はより拡大していきます。なんというか、この流れの中にある『大日本人』は大変異様ですよねー……
『大日本人』には、文学のなかでよく論じられる虚構の問題を見出すことは必至だと思います。
しかし、その点は、やはり、松本さんはコメディアンであり、一つの完成された虚構の方法論のみでとどまることで映画視聴者の「現実」とは線引するような見方はされるべきではないのかなというのが私の考えです。
映画視聴者の「現実」と対比させたときに起こる、違和感を「笑い」に変えていこうという意図が『大日本人』にはあると思います。
マジメな問題について、笑いで立ち向かったのが「大日本人」であり、松本さんの映画なのかな。
なんにせよ、非常に面白い映画でした!