松本人志監督作品を全て鑑賞し終わりました。
  1. 大日本人
  2. しんぼる
  3. さや侍
  4. R100
以上4作です(公開順)


 松本作品を見ようと思ったきっかけは以前も書いた通り、「R100」が見たかったから。(と、いうか片桐はいりさんの問題のシーンを見たかったから)
とっても見たかった「R100」も含めて全作を通して見ると、なんだか映画を見ているというよりも松本さん自身を見ているようでした。松本さんという個人に好感が持てるようになったのが一番の収穫だったのかなあ。
 とりあえず感想は以下に。
 普通に内容に触れていますので嫌な方は御覧にならないようにお願いいたします。




 

 ✾しんぼる

 習作という言葉が一番よく似合う映画かなと思いました。
 部屋を脱出するという一つの目的のためにひたすら挑戦を続けるという構成上、「習作」という印象がつきまとうのは当然のことのように思えます。

 「しんぼる」は大きく分けて以下2つのパートに分かれます。
  1、メキシコパート
  2、部屋の中パート

 映画自体は第1パートから始まります。字幕とかもついていてかなり雰囲気もいい。超かっこいいです。全体の構成から考えると「部屋の外」と考えるのがいいのでしょうか。(ラストシーンから考えるとそれは逆転する可能性もある)

 第2パートでは男性器型のスイッチ(多分これが「しんぼる」だったのかな?)を押すと何かが起こる!!というのが基本姿勢。男性器といっても幼い、かわいらしいものなのでグロテスクさも何もないです。例えるならコロコロコミックで描かれるようなもの。

 スイッチを押すと、何もない部屋にいろいろなものが現れる。これが第一段階。
現れるものを駆使して、部屋から出よう!という試行錯誤を描きます。この段階で評価したいのは、様々な形で時間の経過が表現されていること。
 ひとつは盆栽。おそらく、あれは梅だったろうと思うのですが、こんなもの役に立たないよなあと最初は思うんですが、それが時間が立つごとに花開いていって視聴者を楽しませてくれる。あのシーンはとてもキレイで大好きです。感動しました。
 もうひとつは寿司の腐敗。この映画の中で描かれる中では唯一の食べ物。主人公はお腹が減って、食べ物がないかとスイッチをおしまくり、やっとのことで寿司にたどり着きます。最初はとても喜んでいて、食べる。(食べる前に問題はあるにはあるんですが……)しかし、別のシーンではこれが腐っていく。茶色くなっていく。映画内の時間をよく感じ取れるところであります。
 あとはパジャマがだんだん色あせていっていたり。探せば他にもたくさんあるでしょう。そういうところが丁寧でよかった。 

 最後、主人公は神的な何か?のような存在になります。スイッチを押すことの影響は「部屋の外」にも及ぶようになります。これが本当にまっっっったく!関係のないところに影響が及ぼしていく。世界のどこかで爆発が起こったりとか、冗談では済まないことが起こったりする。しかし、その中にボーリングでストライクをとるシーンとかも混ざったりしていてとても滑稽。
 
 最初みたときは大日本人よりは…とちょっと否定的だったけど、考えれば考えるほど違う見方が浮き上がってくる映画で、個人的には松本作品の中で「しんぼる」に一番好感を持っています。

 そして何よりもエンディングがよかった。買いたいんですが売ってないんですよね…。残念。


 ✾さや侍

 野見さんという一般人の方が主演の映画。どうやら昔、松本さんの番組で発掘された方のようです。動きがおもしろいということで注目されていたようです。

 この「さや侍」、話は至って普通で、むしろかなりいい話。でも、野見さんがそれをやってるという状況を楽しむ映画だったのかなと思います。
 あらすじとしては、刀を捨てた武士が逃亡の罪で逮捕されるものの、笑わなくなってしまった若君
を笑わせることができれば無罪放免、できなければ死罪という切羽詰まったストーリー。
 
 若君を笑わせるための芸がひとつひとつ凝っていて、それを一生懸命やっている野見さんがおもしろいです。普通、一般の方があそこまで恥を捨てた体当たりで芸に打ち込むことはできませんから、あのストッパーが外れている感じは野見さん、素直にすごいと思う。

 芸の回数を重ねるごとに芸のクオリティは上がっていきます。芸の向上に一役かうのが牢の番をしているお侍の二人。(板尾創路、柄本時生)
 この二人のアドバイザーが加わることで、芸について議論が交わされます。それがさながら笑いを哲学しているようで面白かった。

 しかし、あまりにいい話すぎて盛り上がりに欠けるところはあったかなと思います。
 野見さんという存在が話にだんだん溶け込んでいってしまって、いい話でしかなくなってしまっていたのが残念。
 

 ✾R100

 さや侍がいい話すぎたからなのか、R100は問題作でしかなかった。
 とびきりぶっとんでいました。
 
 最初の冨永愛さんが登場するシーンは非常にかっこよかった。この時点ですごく鏡を強調していたから、何かあるのかなと思っていたのですが案の定「顔」が変化する映画でした。なるほどー。

 ビジュアルバムの寿司つぶしのネタも盛り込まれていました。いやあ、あれはまったく理解できない。あれはどういうことなんだ。上級者すぎて私にはさっぱり……、しかしサトエリはとっても美人だった。
 
 メリーゴーランドのシーンはすごくキレイでしたね。これからどんな女王様が出てくるのかしらとわくわく感がかきたてられました。

 メタフィクションについても賛否両論だけど、わたしはわりとそこに戦慄を覚える。
 あんなに恥ずかしいことをやってのける被虐性といったらなんとも言えない気がするのですよね。あれを見たら恥ずかしい、こんなことしない方がいいと言うしかないですもの。
 それで悦に入ってるんだからかなり上級者。映画の反応までひっくるめて話にとりこんでいくというのは大日本人でもあった手法ですが、これは笑いの分野特有であるように思えます。

 見た時は超気持ち悪かったけど、女王様の中では唾液の女王様が一番面白かった。
 その女王様も問題だらけでした。
 以下、R100三人娘をなんとなくかきました。それぞれ嫌すぎてあの人たちなんか愛しいよねえ。
 
以前授業で「笑い」が話題にあがったのだけれど、そこで「笑い」は疎外であるというような話を先生がおっしゃっていました。確かに。
ある特定の者を疎外して見ることで、その異質さが際立つ、それが笑いになるということでした。
これが顕著だったのは「さや侍」かな、と思います。だからこそ、ちょっといい話で野見さんに対して共感が勝ってしまったのでちょっと物足りなさがあったのかなあ。
 笑いはある種差別的な側面を持っている。というのはその通りだと思う。猿まわしはそのギリギリのところにあるので、問題視されがちなんでしょうね。わたしは猿まわし大好きなんですが。その「疎外」が差別的として認識されてしまうと笑いは不快感に変わってしまう。難しいところです。
 なんでもかんでも真面目に見てしまうのはなかなか問題でもあるなと自分でも反省するところであります。わりと自分はその点が視野狭いので。

 笑いの話題があがった授業というのは井伏鱒二の「黒い雨」を扱った授業でした。
 「黒い雨」は原爆症を患った方の実際の日記を材料として、井伏が再構成を測った作品です。そのため、大変克明に原爆が投下された当時のことが描かれております。正直、読むのにつまってしまうレベルでひどい有様が描かれていて、戦争を知らない自分なんかはその内容だけでかなりショッキングなもの。読むのが辛いという感想しか、最初は抱けなくてそこから文学性を引出すことに苦労しました。
 
 そんなものすごい作品を扱う授業の中でなぜ笑いについての話題が出たのか?なかなか共通項が見いだせないところだと思います。

 井伏研究の中で特に強調されるのが「滑稽さ」という要素です。
 特に有名な「山椒魚」という作品でも、岩屋のなかに入ったらうっかり出られなくなっちゃった!というその状況下での様子が語られる。それ自体がかなり滑稽な様であると言えます。
 
 井伏が書く滑稽さは、現在TVで氾濫するようなカラッとした笑いが起こるようなものではなくて、より人間的な性質を揶揄するようなそんなユーモアであるというのが井伏研究の中での流れのようです。

 「黒い雨」にもこのユーモアは確かに生かされていて、坊主でない人がお経を読んでお布施をもらったりしてしまう。最初はお経の力なんて信じていなかったのに、だんだん思わず口から出てしまうようになったりする……こんな様子は滑稽としか表現できないわけでそこに井伏のユーモアがあるのだろうというような内容でした。

 この井伏が行ったようなユーモアは松本さんの映画にも共通するところで、「笑い」の質が異なっていると多く指摘されるのもこの「ユーモア」の性質ゆえなのだろうと思います。

 そして、これも先生が言っていたことだけど「ユーモア」とはすなわち人間性の発露だから、これが究極的に表出してくるのが「死」であって、「死」と対面したときにその人の人間性はより強くなる。そういう意味でユーモアっていうのはグロテスクなものである、というようなことをおっしゃっていました。

 これはまさにR100にあてはまるところだと思います。
 R100の場合、「性」によってユーモアが導きだされる。「性」も文学のなかでは「死」と同様に重要な要素となっています。これがラストシーンでは子を孕むという意味で「生」につながっていくのもなかなかおもしろいところですね。