山梨県立文学館で行われた津島祐子さんの講演会「文学の場所を求めて」に参加してきました。

本記事では講演会に参加しての感想を書き残しておこうと思います。



津島祐子さんとは

『ナラ・レポート』、『火の山―山猿記』などで知られる小説家です。谷崎潤一郎賞や紫式部文学賞など数々の文学賞を受賞されています。

太宰治の次女であることも有名です。

実際に相対すると本当に聡明でいて落ち着いた品のある素晴らしい方でした。



講義テーマ「文学の場所を求めて」

今回の講義は「文学の場所を求めて」と題されていました。

津島さん曰く、このテーマはフランスの小説家・プルーストの『失われた時を求めて』をもじったとのこと。



津島祐子さんの講義をきいて


津島さんにとっての文学とはあくまで考える力を育てるものであって寧ろ「従わない」というメッセージを発信するものであってほしいということをおっしゃっておいででした。

世の中には大きな流れとして人を従わせてこういうものだと信じこませるような作品群もあるとしかし、津島さんはそれを否定する立場をとっているとのこと。


確かに、私自身も手段として用いられる「文学」(をはじめとした芸術、報道といった非常に曖昧な概念)は非常に危険だと思う。

その点については立場は同じです。


文学が「従わない」とメッセージするものであるということも一理あると思う。

近代文学の成り立ちからみて、その根源は内の探求であるということはできるでしょう。だからこそ、考えるというフレーズも出てくるのだと思う。


しかし、確認しなくてはいけないのかな、と思うのは、ここで言われている「文学」とは、やはり「近代文学」であって、その「場所を求める」ということは果たして現代の中で可能なのかということです。


(津島さん自身は、決して現代に蔓延するノベル"の類を否定してはいません。

ただ、そこに考える余地があるのかということについて疑問を呈していらっしゃった)


津島さんの指摘した問題点の一つ一つはもっともだと思うのですが、それをどう現代の中で適応していくのかということが非常に疑問だった。


近代は現在も続いている?


大塚英志は「キャラクター小説の作り方」の中で近代はまだ終わっていないと言っています。それは「小説」という方法の中での方法が近代とは何ら変化がないからだと言っています。


そう言われると、確かに近代はまだ続いているという見方は適当であるとは思います。

しかし、それでも社会の状況は大きく変革していっていて、今わたしたちはまさに過渡期にある。

このことを文学者としては理解していかなくてはいけないのではないか。


まさに今回の講演は「近代文学」の場所を求めていた。


近代の立場に立ち続けた批判のみで現在の検討はできるのか。

それが非常に疑問に残りました。